ユリカモメの冬羽
4/20、仙台で積雪2cm。ラジオでは4月下旬の積雪は66年ぶりと言っていました。花見をしつつ広瀬川にでも行こうと考えていましたが、雪と寒さで体が動きませんでした。宮沢橋から広瀬橋付近の広瀬川は桜もあり、川には水鳥も多く集まっています。餌付けをしている人もいて、少し前まではハクチョウやカモ類、それにトビも集まってきます。カモメの仲間のユリカモメも多くいます。今回はこのユリカモメを撮ろうと思っていました。なぜユリカモメかと言うと、冬羽のユリカモメは下の写真のように目の後ろが少し黒っぽくなっています。これが夏羽になるとビックリするくらい頭が黒くなるのです。カモ類でも夏羽と冬羽で結構ちがいますが、ユリカモメはそれ以上です。それを是非皆さんに紹介したかったのですが…残念!
ユリカモメ(成鳥:冬羽)
別名を都鳥とも
ユリカモメは冬鳥ですので、間もなく北方(カムチャツカ半島等)に渡り、繁殖をします。カモメの仲間ですが海辺以外にも河川や内陸の湖沼に群れで飛来し、そこで越冬します。名前の由来は、白百合の花のように清楚できれいだからという説もあるようですが、入り江のカメモが転じて(いりえのカモメ→イリエカモメ→)ユリカモメになったという説が有力のようです。入り江だけではなくて、他のカモメ類よりも河川や内陸の湖沼まで入り込んでいます。宮沢橋も海からの直線距離で約10km程ありますが平気で行き来します。また「都鳥(みやこどり)」という別名もあります。
業平の歌によまれた鳥
この都鳥については、平安初期の歌物語である『伊勢物語』第九段「東下り」の一節にでてくる、在原業平(ありわらのなりひら)の詠んだ「名にし負わば いざ言問はむ都鳥 わが思う人はありやなしやと」という歌が有名ではないでしょうか。古典文学の苦手な私が解説するのもへんですが、今風に解釈すると次のようになります。
平安時代の京にはいない「都鳥」
京の都から、自分探しの旅に東国へ出かけた男達の話です。この男達、それぞれ妻や恋人を京に置いたまま出かけていました。三河から駿河を通って関東地方に入り、隅田川を船で渡っていました。川を渡ることで、京からさらに遠く離れてしまうという感傷に浸っていたときに、ふと目に映ったのは、真っ白な体で赤い足とくちばしをもつ、シギぐらいの大きさのきれいな鳥が水の上を泳ぎながら魚を食べている様子でした。
京では見かけない鳥なので、船頭さんに聞いてみると、「あれは都鳥(みやこどり)」との事。みやこという言葉が懐かしくもあり、悲しくもあり、それが歌となって「名にし負はば、いざ言問はん都鳥、わが思ふ人は、ありやなしやと」。歌意は「都の名がついている鳥ならば、おまえに聞きたい。京都に残してきた私の思っている人は、今でも元気でいるかどうか」という感じですかね…。私には文学的な表現をくみとれませんが、一つ気になりました。都鳥(ユリカモメ?)は京都にいない鳥だったということです。
別のミヤコドリもいる
皆さんの中にも、冬の鴨川や桂川でユリカモメが群れ飛ぶ姿を見ている人も多いと思いますし、実際に多くのユリカモメがいます。でも平安時代の初期にいなかった? それとも都鳥そのものがユリカモメではなく別の鳥? 確かにミヤコドリという鳥はいます。下の写真がそうです。足とくちばしは赤いのですが、白い体ではなく頭から背中は黒い色をしています。水の上を泳ぎ回って魚を食べることもありませんし、海岸や干潟に一時的に渡来する旅鳥で、数も少ないです。やはりユリカモメを都鳥とするのが妥当と思います。
ミヤコドリ
京の風物詩になったのは近年のこと
資料を調べていくと京都のユリカモメが1974年1月に初めて鴨川に姿をみせ、その後は年々数を増やして1989年には約1万羽に達し、京都の冬の風物詩になったとの記載を見つけました。確かなことはいえませんが、平安時代にユリカモメは京都にいなかった可能性もありますね。歴史書や古典文学からこんな推理をしてみるのも面白いです。まして外に冷たいみぞれが降っている日は特に。
最後に、冒頭の写真や今までの書きぶりからユリカモメのイメージはとても良いように思えます。またカモメと聞くと、青い海、白い雲、そしてその中にカモメと爽やかな映像が見えます。しかし、実態としては他の鳥の雛をさらったり、東京湾のゴミ埋め立てに数万羽の単位で押しかけ生ゴミをあさったりと、カラスのような悪食です。また、目つきの悪いのもいますよね…(あまり良いように書くとユリカモメも舞い上がりますので、最後に少しおとしめます)。
- 【参考資料】
- 唐沢孝一『ブルーバックスB-914 都市鳥ウオッチング』(講談社、1992年)205-211頁
- 日高敏隆『日本動物大百科第3巻鳥類Ⅰ』(平凡社、1996年)112-119頁